01.憧れの男性
薄暮が近づき、立ち並ぶショップが次々に暖かな灯りに彩られ始めた街のアーケードを一人夏輝は歩いていた。彼女が一軒の靴屋の前に来たとき、その店の中から幼い女の子の手を引いた若い父親がにこやかな表情で表に出てきた。
「パパ、ありがとう。この靴、ずっと欲しかったんだ」
「そうか、良かったな」
丁度夏輝の横で立ち止まった女の子は、父親を見上げた。「抱っこして、パパ」
彼は無言でにっこりと笑い、その両腕で彼女を抱き上げ、小さな額にキスをした後、その胸にぎゅっと抱きしめて、そのまま歩き出した。
夏輝はその親子の後ろ姿が通りを歩く人混みに紛れるのを目で追った。
その時、ふと背後から優しい声がした。「あれ、夏輝ちゃん?」
夏輝は振り向いた。「あ……。ケンジさん」
夏輝のすぐ背後にすらりと背が高く、温かい笑顔をたたえたケンジが立っていた。
「やっぱり! そのポニーテールですぐにわかったよ。どうしたの? 今日はひとり?」
「はい」夏輝はほんのり顔を赤らめて言った。「修平は今、中学校生徒指導の宿泊研修会に参加中で、三日後にしか戻って来ないんです」
「そう。それは寂しいね」ケンジは本当に寂しそうな表情でそう言った。
「ケンジさんこそ、お一人ですか?」
「うん。ミカも丁度水泳指導者の講習で留守にしているからね。帰ってくるのは明後日だ」
「お寂しいでしょう?」
「そうだね」ケンジはそれだけ言って笑った。「少し一緒に歩こうか」
「はい」
夏輝とケンジは並んで、夜の顔へと表情を変えたアーケードの賑やかな繁華の中を歩いた。
海棠ケンジは夏輝の友人真雪の伯父にあたる『海棠スイミングスクール』の経営者で、夏輝も夫の修平も二人が付き合い始めた高校時代から何度となく彼の家を訪ね、真雪やその夫龍――彼はケンジの息子なのだが――といっしょに夕食を共にしたことがあったのだった。ケンジの妻ミカも二人にはとても親切で、夏輝たちはこの夫婦をとても尊敬し、慕っていた。特に父親のいない夏輝にとって、ケンジは心を温かく包み込んでくれるような憧れの存在だった。
「じゃあ、今日の晩も一人?」ケンジが訊いた。
「え? は、はい……」
「仕事は? 警察官って、忙しいんでしょ?」
「警察官も、言ってみれば一介の公務員ですから」夏輝はいたずらっぽく笑った。「今はあたし、通常勤務で、普通に朝から夕方までなんです」
「そう」
「ケンジさんは、スイミングスクール、お休みなんですか?」
「今日はプールの点検で、明日の定休に合わせて午後から閉めてるんだよ。一人で家にいても退屈だから、こうして街をぶらついてたんだ」
「そうなんですね」
「でも、ラッキーだったよ」ケンジは立ち止まって笑顔を夏輝に向けた。「こんな素敵な女性とプチデートができるなんてね」
「あ、あたしもです……」夏輝は小さく言った。
さっきから夏輝の鼓動は図らずも速くなっていた。彼女自身そのことにかなり狼狽していた。
「そうだ」ケンジが言った。「今夜、いっしょに食事しない?」
「え?」夏輝は驚いてケンジの顔を見た。
「二人とも今夜は一人身。こんな機会は滅多にないよ。もちろん、君さえ良ければの話だけど」
「う、嬉しいです、ケンジさん。是非」
「そう」ケンジはにっこりと笑った。夏輝の鼓動がさらに速くなった。
「じゃあ今夜7時半に、そこの『ユカタン』で」ケンジは振り返って彼らの背後、狭い路地の隅にある小さな店を指さした。
「わかりました」夏輝も精一杯の笑みを浮かべて言った。
「僕が予約しておくから。じゃあ、また後で」ケンジは手を振りながらあっさりと夏輝から離れて、小走りに去って行った。夏輝の身体はどんどん熱を帯びていった。
◆
「ケンジさん、今日は誘っていただいてありがとうございます。良かったのかな……あたしなんかと……」
夏輝は、右手にワイングラスを持ったまま、テーブルをはさんで向かい合ったケンジに言った。
「気にしないで。夏輝ちゃんも、こうして外でゆっくり食事をすることなんか、なかなかできないんじゃない?」ケンジは温かく優しい目を細めて言った。「でも、僕こそ良かったのかな? 今になってこんなこと言うのもなんだけど、僕が夏輝ちゃんと二人で食事したりして。修平くん、怒らないかな?」
「いいえ、そんなこと。あたしがこのことさっき電話で話したら、行って来いよ、気分転換に、って言ってくれました」
「そう。心が広いね、修平くん」ケンジはまた柔らかく笑った。
「そ、そうですね」夏輝はうつむいて少し赤くなった。そして皿に載せられたタコスを手に取った。
「こんな料理で良かった?」
「とっても美味しいです。ここ、多国籍料理の店なんでしょ?」
「ラテンアメリカ系だけどね。そのワインもチリ産なんだ。安いけどうまいでしょ?」
「チリ産? そう言えばイタリアワインとはちょっと違う味ですね」
おお! とケンジはうれしそうな声を上げた。「夏輝ちゃんもワイン通なんだね」
「い、いえ、あたし、修平といっしょに外食するときはイタリアンが多くて」
「そうなんだ」ケンジはグラスを手にとり、目を細めてそのビロードのような赤い酒を口にした。
「夏輝ちゃん、」ケンジがコーヒーを飲む手を休めて言った。「今、はっきりさせておきたいことがあるんだ」
「はい?」夏輝はデザートのラム酒のかかったアイスクリームを食べる手を止めた。
「食事代は僕が出すから」
「え? そんな、だめです、あたし、」
「これは僕の役目。君を誘った僕のね」ケンジは微笑んだ。
「でも、」
「もちろん君に借りを作らせるつもりはない。だから、ここは僕に甘えてくれないかな」
ケンジの柔らかな笑顔は、夏輝がそれ以上食い下がることを許そうとしていなかった。
「わかりました」
「アイスクリーム、溶けないうちにどうぞ」
「すみません……」夏輝は申し訳なさそうに言って、スプーンを持ち直した。
「あたし……」
夏輝が手のスプーンを止めて、アイスクリームの器を見つめながら小さく口を開いた。
ケンジは少し首を傾けて夏輝を見た。
「こうしてケンジさんと食事をしてると、まるでお父ちゃんと一緒にいるような感じがします」
「そう」ケンジは少し寂しげに微笑んだ。
夏輝は顔を上げ、決心したように言った。「ケンジさんのこと、あたし、お父ちゃんだって思ってていいですか?」
ケンジは手に持っていたスプーンを器のそばに戻して、少し身を乗り出し、にっこりと笑った。
「もちろん」
夏輝は恥じらったように顔を赤らめた。「ありがとうございます」
「僕なんかでよければ」
ケンジの笑顔はひどく優しく温かだった。夏輝は喉元にこみ上げてくるものを感じて、少しだけ残っていたアイスクリームをスプーンですくった。
空になったアイスクリームのガラスの器のそばに置かれたコーヒーカップを手にとって、夏輝は両肘をテーブルに置いた。「あたし、お父ちゃんに抱かれたり、キスされたりする夢を時々みるんです」
「そうなの?」
「はい。その時はあたし、ちっちゃい子どもで、お父ちゃんはあたしを抱き上げてぎゅって抱きしめて額にキスしてくれるんです」
夏輝はそう言いながら自分の額を指さした。
夏輝の父、一樹は、夏輝が産まれた日に、病院へバイクを急がせている時、交差点で信号無視の軽トラックと衝突して帰らぬ人となったのだった。
「一度も抱かれたことなんかないのに、夢の中のお父ちゃんの腕は逞しくて、抱いてくれる胸はとっても温かくて、あたしとっても癒されるんです」
「素敵なお父さんじゃない。今でも彼は空から君に愛情を贈っている、っていうことなんじゃない?」
夏輝はふっと笑った。「そうかもしれませんね」
夏輝がコーヒーを飲み干して、カップをソーサーに戻したことを確認して、ケンジは背筋を伸ばした。
「さて、もう遅いから帰るとしようか」
「そうですね」
レストランの払いを済ませると、ケンジはドアを開けて先に外に出てから夏輝を待った。
アーケードを出て良く晴れた夏の夜空の下を二人は歩いた。
「ごちそうさまでした。ケンジさん」
「あの店、気に入った?」
「ええ。とっても」
「今度は修平くんと食べにくるといいよ。昔からの行きつけなんだ」
一本の白い街灯の下に蚊柱が立っていた。
夏輝はバッグからハンカチを取り出して額の汗を拭った。
ケンジはそんな夏輝をちらりと見て、言った。「夜でもまだ暑いね」
「そうですね」
「でも、今は修平くんが君をたっぷり愛してくれてるわけでしょ? いつでも優しく抱いてくれるんじゃない?」
夏輝はふいに立ち止まり、懐かしそうな目を夜空に向けた。「修平が初めてあたしの部屋に来た時、お父ちゃんがいないことを話したら、背中からあたしをぎゅって抱いてくれたんです」
「そう」ケンジは微笑んだ。
「その時、彼『おまえの父ちゃんの代わりになんかなれねえけど、こうしていつでも抱いてやっから』って言って、少し涙ぐんでました」
「優しいね、修平くん」
夏輝は無言で何度もうなずいた。
「いい彼氏と結婚したね」
夏輝はケンジの顔を見た。「でも、修平はやっぱりお父ちゃんの代わりにはなれない」
「そうなの?」
「だって、同い年でしょ? 修平は恋人や夫としてあたしを抱いてくれるけど、やっぱりお父ちゃんみたいに大きく包み込んでくれるわけじゃない」
「なるほどね」
「でも別にあたし修平にそんなことを望んでるわけじゃないし、彼に抱かれると別の意味でとっても満足するから、気にしてないんですけどね」
歩き出した夏輝の横顔を見て、ケンジは数回瞬きをした。
★修平が初めて夏輝の部屋を訪ねたシーン→「Marron Chocolate Time~『夏輝の部屋』」
二人は、夏輝の家へ向かう脇道に折れた。そこは街灯が少なく、人通りもほとんどなかった。
「あ、もうこの辺りで結構です。すぐそこですから」夏輝が言った。
「そうはいかないよ。何かあったら修平くんに何て言われるか」
「大丈夫です。あたしも一応警察官ですから」夏輝は笑った。
ケンジは立ち止まった。夏輝も同じように足を止めた。
「でも今は丸腰でしょ? それに、酔ってるし」
夏輝は黙って横に立つケンジの横顔を見上げた。
ケンジは夏輝を横目でちらりと見た後、躊躇いがちに言った。
「今日の夜、一人だと寂しいんじゃない?」
夏輝はケンジを切なげな目で見つめたまま黙っていた。
ケンジは空を見上げた。「きれいな星空だなあ……」
夏輝も思わず天を仰いだ。まるで降るような星空だった。「本当に……」
その時、ケンジの手が、そっと夏輝の肩に置かれた。「あ……」夏輝は思わずケンジを見た。するとケンジは、もう一方の腕を夏輝の背中に回し、自分の方に抱き寄せた。
「ケ、ケンジさん……」
戸惑う夏輝に考える余裕も与えず、ケンジはその温かい両手を肩に柔らかく乗せたまま、彼女の額にあっさりとキスをした。その行為は決して無理強いではなく、極めて自然で、しかも洗練されていさえした。
ケンジはしばらくの間夏輝の目を見つめていた。夏輝は潤んだ瞳でケンジの目を見つめ返した。
どちらからともなく二人は唇を重ね合わせていた。
夏輝の身体からすっと力が抜け、ケンジの腕にすっかり身を任せて、いつしか彼の温かく、蜂蜜のように甘い香りのする唇の感触を味わっていた。
そのかすかに震える唇から口を離したケンジは、夏輝の耳元で囁いた。「僕の家に行こうか」
ケンジに肩を抱かれ、夏輝はまるで恋人同士のようにケンジに身体を寄せて歩いた。
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